由禧(よしき)先生
自然の神さまに出会う旅F
2025/08/01 20:42:03
木の神さま__木霊 (こだま)◇声なき声と生きること◇
山に入ると、ときおり、不思議な静けさに包まれることがあります。
鳥のさえずりや葉擦れの音が止み、
まるで山全体が耳を澄ませているかのような、そんな感覚。
呼吸を飲み込んでしまうような沈黙の中に、
かすかに「何か」がいる気配を感じたことはありませんか?
それが、「木霊(こだま)」です。
木霊とは、日本の古くからの信仰の中で、
木や森に宿る精霊、あるいは神霊とされてきた存在。
山中で発した声が返ってくるあの「こだま」も、
元をたどればこの木霊の仕業と考えられていました。
けれど木霊は、ただ反応するだけの存在ではありません。
自ら語ることはなく、問いにだけ応じてくる。
そして、その応えは、いつもわたしたちの声そのもの――
つまり、問いかけた「わたし」の反響です。
それはまるで、何かを求める者の心に寄り添いながらも、
自らは一歩も前に出て来ない存在のようです。
「木を切るときには神に伺う」
かつて日本では、山の木を切る際には
「木を切らせていただきます」と、
木霊に一礼してから斧を入れる習慣がありました。
木には魂が宿っていると考えられ、
それを傷つけることは、ただの伐採ではなく、
「誰か」との関係性を変える行為だったのです。
この風習は、「声なき声」に耳を傾けるという文化そのものだったのかもしれません。
人の世の中にも、同じような沈黙が存在します。
何も言わないけれど、確かにそこにいる誰か。
例えば――親と子の関係にも。
◇木霊と親子関係◇
子どもは、小さな木霊のような存在です。
ときに静かに、言葉にならない不安や寂しさをその身に宿しながら、
大人の世界に反響しています。
そして、子どもの「反応」は、
必ずしもその子自身の意思ではなく、
大人の声や態度のこだまにすぎないこともあるのです。
たとえば、親が怒れば、子どもも怒る。
無関心でいれば、子どもも黙る。
愛されれば笑い、見放されれば、心を閉ざす。
その姿を見て、親は「この子はこういう性格だ」と思い込むかもしれません。
けれど実際は――子どもは親のこころの木霊であり、
まるで鏡のように、大人たちの心の波を映しているのです。
これは、私自身が母になってようやく気づいたことでした。
◇声を出せなかった「わたし」◇
かつての私は、親に対して本音を言うことができませんでした。
反論したことも、不貞腐れたことも、ほぼなかった。
それが「優しさ」だと思っていたけれど、今になって思うのです。
あれは、私が親を「愛していなかった」からかもしれないと。
愛とは、関わりを諦めないこと。
愛とは、伝えようとすること。
それが、時に喧嘩になるとしても、ぶつかることを恐れず、
「あなたに届いてほしい」と願うこと。
でも私は、相手に怒っていると思わせることすら怖くて、
すべての想いを呑み込んできました。
それはまるで、山の奥に消えていく木霊のように、
自分の声を反響すらさせずに飲み込んでいた人生だったのです。
◇木霊のように生きていた◇
気づけば私は、誰とも争わず、誰にも気持ちをぶつけずに生きてきました。
でもその静けさの中には、寂しさがありました。
誰にも「わかってもらえない」ではなく、
「わかってほしいとすら言えない」孤独――。
木霊は、そんな私自身のメタファーだったのかもしれません。
自分からは何も言わず、ただ相手の声にだけ応じる。
まるで、愛することも、拒むこともせず、ただひっそりとそこにいる存在。
でも、山の木霊は、それでいいのです。
彼らは、世界と人をつなぐために、静かにそこに存在しています。
声を持たない人の代わりに、応えてくれる存在。
「ここにいるよ」と。
◇木霊のような祈り◇
子どもが、自分の気持ちを言葉にできるようになるには、
大人がまず「声なき声」に耳を澄ませる必要があります。
表情や沈黙、視線の先にあるもの――そうした「こだま」を聴く力。
それは、親だけでなく、自分自身との関係にも言えること。
私は、自分の声を聞いてこなかった。
だから今、自分の中の木霊に語りかけたいのです。
「あなたの沈黙は、ちゃんと届いていたよ」と。
そしてようやく、私もひとつの声を持ちたいと願います。
誰かの反響としてではなく、自分自身としての声を。
静かな森に、ぽつりと灯るような祈りとともに。
あなた様の声も是非お聞かせください。
お待ちしております。
由禧(よしき)
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